| 《記録: 2時間48分 148位(250人中)》
《大会報告》
当日受付、車検無しというシンプルな運営のため6時に網干を出発。今回は富香
とHONDAライフで出発。阪神高速湾岸線で1時間半。7時半には舞洲の駐車場に到着。
昨日どしゃぶりだった雨もあがり、曇ってはいるが、晴れに向かいそうだ。
コースはシーサイドのデートスポットにもなりそうなおしゃれに整備された岸壁沿い
2往復する1500メートルとスイムと、滑走路を含む超フラットかつ公園内の遊歩道を走るヘアピンありのちょっと忙しいコースの8周回の40キロのバイク。そして岸壁をメインに走る3周回のラン10キロである。
1998年の小豆島が最後だったので久しぶりの公式戦であり、ボディナンバーを書いてもらう順番待ちの間にも緊張で心拍数があがっているのを感じたが、坂本君、小西さんと会って少しは緊張もほぐれた。
9時にオリンピックディスタンスの半分の距離であるスプリントがスタート。
私と坂本君の参加する51.5kmは10時と10時5分の2ウェーブ。
第一ウェーブがスタートしてからほとんど最後のほうで入水したのでスタート地点までちょっと泳ぐ間に「10秒前!」のコールがかかり、慌ててスタート。
バトルもなく安心なスイムであったが、岸沿のためか、結構波はあるほうだ。50メートル置きにブイがあるので安心感もある。が、私のスイムはのろすぎた。後半飛ばせたと思ったのに、上陸のはしごにたどりついたとき時計は38分を差していた。
「35分であがる」と富香に約束していたがずいぶん待たせてしまった。ここからバイクトランジッションまでは600メートルもあるため、あらかじめ用意しておいたシューズを履いて走る。トランジッションでまだ多数のバイクが残っていることに一安心。
アミノバイタルを補充してバイクをスタート。まずは超フラットの滑走路だ。滑走路
が終わると海岸に降りてきて、一車線幅の公園の遊歩道だ。小さい砂利を固めた歩道で、タイルもあり、小さな振動が激しい。フルカーボンのケストレルでなければ体へのダメージが大きかったことであろう。小刻みなアップダウンのため時速30キロ後半で走れるのだが,車幅が狭いため、接触のためか落車、パンクが多かったようだ。
こんな面白いが疲れるコースをなんと8周回。おまけにエイドはなくすべて自分のボトルのみでの補給となる。すでに晴れて、暑くなってきているのに。周回なのに今度はサイクルコンピュータの調子がおかしく正しく距離を表示できていない。しかたがない、8周くらいは頭でカウントできるだろう。
6周目ともなると周回上の選手の数が少なくなっているのを感じる早い選手がすでにランに移っているのである。もうこの辺りになると第一ウェーブで弱ってきた選手達も混じっていて結構抜ける。私はアミノバイタルの補給が効いたのかそれほどペースも落ちていない気がするが,すでにサイクルコンピュータはあてにならないので見ていない。
長かった周回も終わりようやくトランジッションへ。ランに移り、整備された海岸沿いに出るとトップのゴールのアナウンスが聞こえてきた。まだ2時間たったばかりなのに。こっちはこれからランである。一度ゴールを横目に通り越して走る。ここで大きな勘違い、ラン2周回と思いきや、3周回であった。2周回を終えてゴールに向かうとちょっとタイムが早すぎる。不安になって横の選手に聞いてもうあと一周と聞く。基本的なミスをしてしまったが、気を取り直して最後の周回へ。ここ最近の白浜の練習会ではラストの10キロに48分かかることが多い。ここはなんとしても45分以下では走りたいところだ。最後の直線は白浜コースの最後の直線を想像させる。寸前で一人抜いてゴール。ランは46分であった。う〜ん周回想定ミスが痛い。
気になるゴールタイムは2時間48分で順位は約250人中の148位。2時間30分台をねらっていたのだが、昨年さぼって復活できるほど、現実は甘くはなかった。7月から毎週2〜3日の東京出張で仕事が時間、場所共不規則とはいえ、昨年と比べればフィットネスレベルながら練習時間は確保できていたはず。時間の使い方と練習内容には、まだまだ工夫しなければならない。
今月から始まるマラソンラッシュ(銀山湖、雪彦、福知山)で気分を新たにがんばろうと思う。
坂本君は2時間13分で堂々の8位入賞。おめでとうございました。
小西さんもお疲れ様でした。出場していたら当然5位内入賞でしたね。
男女共16歳の選手が入賞(男子6位、女子は優勝)し、それぞれがオリンピックへの出場を意識しているそうでした。
最後に富香には無理をさせた。前日準夜勤で遅く帰宅したのに5時前に起こし、私のゴールが遅いため,暑い中待ってもらった。トライアスロンの応援はもうイヤと言われない様にもタイムアップは図りたいものだ。ただ高校生やぜんぜんアスリートには見えない現代風の若者が選手であったり、色々なタイプのバイクがあることに多いに興味を示してくれたことが救いであった。
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